CATEGORY
POWERED BY
SKYBABIES
SKYBABIES

生きづらさに、おめでとう。人生の続編は、大通りから外れて始まった | 精神科医 泉谷閑示

「みんなと同じように“普通”にできない」

喉の奥から声を絞りだし、布団にうずくまる。

「どうしたの?大丈夫?」

心配そうな家族の声。その瞬間、どっと涙が溢れた。

枕元のスマホを必死にたぐり寄せ、「退職させてください」と上司にメールを打つ。これは2018年夏、新卒入社して3ヶ月が経った頃。世界のすべてが灰色に染まってしまったような虚しい月曜日の朝だった。

***

ピカピカのスーツを纏った桜咲く4月。いち早く社風にも慣れ、成績も評価も悪くなかった。誰にでも愛想よく振る舞い、目の前のことは一生懸命がむしゃらにこなした。「成長したい!社会に貢献したい!」と高らかに理想を掲げた。社内には可愛がってくれる先輩も、頼ってくれる同期もいて。だからこそ、「もっとがんばろう!」と自分を鼓舞し続けた。

でも次第に、「何かが違うのではないか」という心の声が大きくなっていくのを感じた。自分にとって大事な“何か”がじわじわと蝕まれていくような感覚。それに見て見ぬふりをして毎日スーツに袖を通した。毎日同じ電車に乗り、同じデスクに座り、“違和感”に蓋をし続けた。

筆者撮影

なぜなら、がんばっている自分に価値がある。がんばれない自分なんて誰も認めてくれない。そう思い込んでいたから。

今にも倒れそうな体を引きずり、満員電車のなか、痛いくらいヒールに力を入れて踏ん張った。

けれど、大きく膨れ上がった“違和感”は、とつぜん爆発した。心と体が、ぷつりと止まり、ベッドから動けない。そしてあろうことか、動けない自分を責めた。できないところばかりに目を向け、会社や社会に順応できない生きづらさに押しつぶされてしまった。

筆者撮影

あれから4年が経ち、ライターになった。生き方を伝えるライターと名乗り、日本中・世界中の人にインタビューをしながら、「自分らしい生き方」を模索し続けている。

そんなとき、なにかに引き寄せられるように「あ…この人…おもしろい」と心が反応する瞬間にでくわした。精神療法を専門とする精神科医の泉谷 閑示先生が執筆した著書との出会いだった。

私たちはみんな、ほかの人とは違う「角(つの)」を持って生まれてきました。「角」とは、自分が自分であることのシンボルであり、自分が生まれ持った宝、つまり生来の資質のことです。

この「角」は、何しろひときわ目立ちますから、他人は真っ先にその「角」のことを話題にしてきます。動物としての習性からでしょうか、集団の中で「角」のためにつつかれたり冷やかされたりして、周囲から格好の餌食(えじき)にされてしまうこともあります。そんなことが繰り返されますと、いつの間にか「この『角』があるから生きづらいんだ」と思うようになる人も出てきます。

自分が自分らしくあること、その大切な中心である「角」、それを自分自身で憎み、邪魔にして隠しながら生きるようになってしまうと、生きること自体が色あせ始め、無意味なものに感じられるようになってきます。生きるエネルギーは枯渇し、すべてが立ち行かなくなってしまいます

引用:著書「普通がいい」という病 泉谷閑示

かつて「普通がいい」という病におかされ、角を憎み、蓋をし、見えないふりをしたわたし。そして、なんとか角に向き合い、どうにかして角を活かして生きられないかと、必死に模索するわたしにとって、この言葉からはじまる本は、まるで鏡の中の自分を見ているようだった。

最後まで読み終えたとき、著者である精神科医の泉谷閑示先生に話が聞きたい衝動はもう止められなかった。

講演会やセミナー、出版、メディアの取材を通じて、多くの人の支持と反響を呼ぶ泉谷先生は、どんな人生を歩んできたのか。この思想に辿り着いた背景には、どんな物語がねむっているのか。

いまだに消化しきれない過去を胸に秘めながら、先生の生き方を紐解きに、東京広尾にある「泉谷クリニック」のドアをゆっくりと開けた。

「学校の勉強だけじゃつまらないじゃない?」あらゆる文化に触れた学生時代

泉谷先生は、やわらかな佇まいで部屋にまねき入れてくれた。

重厚感のある椅子にそっと腰掛け、周囲を見渡す。部屋の壁際に沿うようにびっしりと本が並んでいた。これがすべて思想の種になっているのだな…そう思うと、まるで先生の知識の宝庫に迷い込んだようだった。

先生のルーツを知りたい。

その一心で、まずは生い立ちについて尋ねることに。精神科医として人の生き方に触れる先生は、どんな子どもだったのだろう。そっとテープを回しはじめた。

秋田県の田園風景が広がる地域で生まれ育ちました。雪深いところで、冬はよくスキーをしましたね。学生時代は社交的かつ活発で、児童会長・生徒会長を務めて全校集会で挨拶をしたり、吹奏楽部の指揮者をしたり。前に立ってなんでもやっていました。

学校ではリーダー的存在だったので、それを利用してずるいこともしましたね(笑)。集会で今月の遅刻者の発表があると、『おれの名前消しておけよ!』と舞台袖でこそっと言ったりね

朗らかに笑いながら話す、子ども時代のエピソード。ひときわ惹かれたものについても話してくれた。

母親が音楽の教師だったこともあり、小さい頃から音楽を聴き、ピアノに親しんでいました。中学生くらいから楽譜通りに弾くよりも、途中から脱線して自分なりにアレンジして弾く方がおもしろくてね。そこから作曲への関心が高まっていきました

大学に進学するときも「医学部に入ったら、作曲の勉強をさせてくれ」と両親に頼み、作曲家の先生に弟子入りするような形で学びを深めたという。

毎週レッスンに通うんですよ。それが結構、本格的で。音大の作曲科並みのプログラムや課題をどんどん出されるんです。週に1曲作ってましたから。大学の勉強よりこっちの方が大変でしたね(笑)。

でもオーケストラの曲を書いても演奏されないので、自分で音を出そうと思ってジャズ・フュージョンのバンドも組みました。僕はそこではサックスを演奏しました

目を細め楽しそうに話す。ほかにも、大学時代はあらゆる文化に触れたという。

ポップアートのギャラリーに出入りして、芸能評論誌を発行したり、哲学や美術について語り合ったり。友人の家に6〜7人で集まって読書会も開いていました。文学部・農学部・医学部、いろんな学部の連中が集まって、毎週、課題図書を決めて熱く議論を交わしました

知りたいことも、やってみたいことも、たくさんある。好奇心のまま、自分の世界を存分に広げていく。

まぁでも、なにより一番忙しかったのは、合コンですけどね!(笑)

にかっと笑う先生。えっ…!と、こちらもつられて顔がほころんだ。

女の子たちを誘ってテニス行ったり、スキー行ったり。もうやりたいことがたくさんあって、大忙しでしたよ!

畏敬の念があるせいか、「わたしが勝手にイメージする先生」にそんな一面があるんだ…と内心驚きっぱなしだった。と同時に、そこには親しみやすく人間らしい、“ひとりの人”がいた。

「学校の勉強だけじゃつまらないじゃない?」と笑顔を浮かべる姿は、わんぱく少年そのものだった。

「人間」というものを、もっと知りたくて。

そんな先生は、そもそもどうして医学の道に進んだのだろうか。最初から精神科医になりたい、と志は決まっていたのだろうか。

いえ、そんなことありません。なんとなくぼやっと「人間というものを、もっと知りたい」という気持ちがあって。それはどこから来たかというと、子ども時代から夢中になっていた音楽でした。

どうして人は音楽を聴いて感動するんだろう、人間ってなんなんだろう』という漠然とした疑問はありましたね。人間というものを捉える意味では、文学部にも興味があって、どちらかで迷ったほどです

医療という言葉ではくくれない、先生が捉える人間の見方、そして人生の選択がそこにはあった。

手先も器用だったから、外科医になる道もありました。でも、なりませんでした

理由を聞くと、研修医時代のエピソードを聞かせてくれた。

自分の母親くらいの年齢の女性で、乳がんの手術を控える患者さんがいたんです。回診でまわると「先生、わたし大丈夫でしょうか?」と不安げな様子。

難しい手術ではないと知っていたので、研修医だけど僕なりに安心してもらおうと、説明をした。すると「なにこんなところで油を売ってるんだ、そこの研修医!」と、先輩医師から怒号が飛んできたんです

僕が実習でお世話になった外科医たちは、オペをすることが仕事で、患者の気持ちに寄り添うことなど、かけらも気にも留めていない様子でした。

それのどこが医療なんだと、憤りを感じたんです

ぼやっと人間というものに興味があった先生の「大事にしたいもの」が、徐々にくっきりと見えてくる。

しばらくして、精神科の実習に行きました。切り離された病棟の廊下に、しゃがんでぶつぶつ呟いている患者さんがいる。けれど何を言っているのかよくわからない

で、僕も一緒になってしゃがんでみたんです。言葉をかけたら通じるのかな?と思ってね。そしたら、会話が成り立ったんです。

そのとき「ああ、こういうのいいなぁ」って。

じんわりとした穏やかな語り口に、鳥肌がたった。先生が「人間というもの」の輪郭を捉えた瞬間に立ち会ったような、そんな感動だった。

いくら解剖をしても、オペをしても、物質としての人体しか知り得なかった。僕が人間というものについて本当に知りたいと思っていたのは、「精神の働き」だったんだなと気がついたんです。

それは、いま掘り当てた特別なものではなく、散りばめられた日常の延長線だった。

学生時代によく遊んだ話もしたけれど、当時は、恋愛にも一生懸命だったと思うんです。パートナーという深い関係性のなかで、相手と自分の違いを知ったり、同じところを認識したり。うまくいったり、いかなかったり。

そういう近しい人との関わりのなかで、人間というものへの興味がますます深まっていった側面もあると思います

点と点だった過去のできごとや心惹かれたものが、一つの線で結ばれていく。わたしが勝手に意外と感じた先生の一面も、すべて、先生らしさ、につながっていたのだ。

そのうち親しい人に、カウンセリングの押し付けみたいなことをはじめるんですよ(笑)。僕は人間に興味があるからね。目の前の人に陰りや曇りが見えると『悩みがあるんじゃないか?』と、頼まれてもないのにほじくり返してしまう。

相手からすると、ありがた迷惑ですよね。放っておいて欲しいこともあるでしょうし。でも勝手に相手の深いところへ入ろうとしちゃうんです。

それで「あ、これを仕事にしたらいいのかもしれない。それを求めている人にとっては、役に立つことかもしれない」と。それがいつの間にか今の仕事につながっていったように思いますね

常識を、三日三晩、焼き尽くした。

そうして精神科医として働き始めた泉谷先生。

今でこそ精神療法(人間は真に根源的な変化をとげる力を秘めていると信じ、その力が発動してくるように様々な形でサポートする治療方法)を、多くのクライアントさんに届けているが、医師になった当初は納得のいく治療ができず、もどかしさを感じていたという。

僕のような精神科医は稀なのかもしれません。人間というものに興味を持ち、じっくり耳を傾け、ときには背中を押し、ときにはぐっと我慢し、その人の内側から湧き起こる変化を信じて待つ。

医師に依存させるのではなく、本人自身の生きる力が内奥から湧き上がって来てもう一度人生をはじめる、生まれ変わる。僕は、そのサポートをしていく触媒に徹する

でも、残念ながらほとんどの精神科医はそういうアプローチではない。異常があれば薬を処方し、治らなければ入院。”普通”に戻すことを目的とするので、実質は対症療法的に症状を抑え込むだけ。

だから社会復帰をしても、問題の根っこが残っているからまた具合が悪くなりやすい。そうこうしているうちに、その人の宝であるはずの立派な“角”は、どんどん削られていってしまいます

僕は治したくて医者をやっているんだけど。語気を強めて続ける。

ある時、もう嫌になっちゃったんですよね。

立派な一人前の大人になれと言われて、とりあえずなってはみた。医学部を卒業して、医者になり、世間一般で言われるような「成功」は手に入れたのかも知れない。でもちっとも幸せじゃない。

職場の人間関係も、納得のいかない治療方針も、机上の空論でしかない医学の知識も。僕の幸せにはつながっていない。

何かおかしくないか?と、思ったんです

いよいよ怒りに火がついて、大噴火が起きた。常識・道徳・医学の知識・心理学の知識…

すべてが焼き払われていった。三日三晩、それは燃え続けた。

これはもちろん、心象風景ですが、つまり『既存の価値観』がすべてひっくり返されていったんです。あれもちがう、これもちがう。もう全部ですよ。

これまで疑うことなく信じてきた、親・先生・上司の教え、勉強で身につけた知識、世間で当たり前とされていること、成功や幸せの定義、そして論理のもとになる二元論。すべて、すべてが焼き尽くされたんです

やがて噴火も終わり、もくもくと立ち込めていた煙も晴れる。

するとそこにはとても静かな、波一つない湖があったという。

「ああ、生まれてこのかた、こんなに静かで満ち足りた気持ちになったことはないな」と。そして「あ、これか」と思ったんです。学生時代から読み漁っていた禅や哲学の本に書かれていたこと、言葉としてだけ知っていた知識の正体は、これだったのか、と

それから先生の「第二の人生」が幕を開けた。過去のあり方、考え方、ものの捉え方とは別次元の新しい生き方が始まった。

32歳のときだった。

それからは、自分の目で見て、聞いて、感じたことだけを信じて、一から積み上げ直してみようと思ったんです。勉強をして人から話を聞いてインプットした知識ではなくて、実体験から導き出されるオリジナルなものを頼りに生きてみようと

リボーン(reborn)=生まれ変わり。それが“治る”ということ

先生はさらに続ける。

すべてがひっくり返されて内側から出てきた感慨は、「あぁやっぱりそうだったのか、ずっと騙されてた…」というものでした。

常識やルールを信じてきたけれど、どこか“違和感”を抱いていた。

しかしその“違和感”こそが、唯一、燃えずに残ったものだったんです。つまり、本当に大切なことは、あらかじめ自分の心が知っていたということですね

とはいえ、「自分らしい選択」は孤独だ。周囲に相談をしても、応援してもらえるとは限らない。成功する保証もない。

数年前、未経験からライターになったわたしは、自分の選択がとても心細かった。新卒で入った会社を半年と経たずに退職したき、「食べていけないよ」「そんなにすぐ辞めたら働く場所ないよ」という言葉に、容赦なく自信を削がれた体験を思い出した。

だからね、患者さんにもよく『自分の後ろを歩いている人に、道を聞いてはいけませんよ』って言うんです。僕もむかし音楽家になりたいと言ったとき、寄ってたかって反対されました。なれるはずない!って。

いま思うと本当に腹がたつ。そう言ってくる人たちは大抵、そういう生き方をしたことなんかない人たちだったんです。いくら年長者だって、立場が上の人だって、自分の前を歩いているとは限りませんからね

1ミリの迷いなく話す先生。そこには白紙の状態から一つずつ、経験によって積み上げられた確かな感触が宿っていた。

自分の身に起きたことだから、見えてくるようになったんです。人はどのような道を辿って変化していくのか、どう成熟していくのか。逆にどんなふうに、その人らしさが失われていくのか。それは、専門書を読んで勉強をしても決して知り得ないことでした

先生が考える“治る”とはどういうことなのか。その答えをはっきりと見据え、力強く語る。

リペア(repair)=修繕ではなく、リボーン(reborn)=生まれ変わり。それが”治る”ということ。医者として、この目的地がわからないまま道案内ができるものでしょうか?

患者さんに、「専門書によると、ここの大きな川は飛べるらしい。だから飛んでごらん」と言っても怖くて飛べませんよ。

こちらがまず飛んでみせて、「ほら大丈夫だよ、いらっしゃい」と手招きするから、安心して一歩を踏み出せる。わたし自身の生まれ変わりは、人として医師として大きな転機でした

それからというもの、自分らしさを取り戻していく患者さんの“生まれ変わり”を次々に目撃して、それはとても感動的だったという。

非常に才能があり優秀な患者さんがいっぱいいたんです。エネルギーがあるがゆえに、ひとたびこじれるとこれがひどい状態になる。セッション中で僕が気に沿わないことを言えば、待合室でリストカットしちゃったりね。こちらも命がけでした。

でもね、そういう人の生き方が変わって綺麗に抜けていくときは、とても感動的です。ああ、この人の本来の姿はこうだったんだな、と。人間ってすごいんだなと

人生、続編の方がおもしろい。“普通”から外れて幕を開ける

先生のように“違和感”に気づきながらも、なかなか一歩が踏み出せない人もいる。会社を辞めたくても辞められない。やりたいことがあるのに、行動に移せない。嫌だなと思いながら今日も同じ1日を繰り返す。

そんな人が、みんなと同じ大通りから逸れて、自分らしい道を見つけるにはどうしたらいいのだろうか。先生は、真剣な眼差しで正直に答えてくれた。

まぁ、「人生がよくなるらしいから、簡単に自分らしい道に行けるなら行こうかな」という程度の考えでは行けるものではない。決して甘くありません。前の人にくっついて行けばいい大通りから外れて、道なき道をかき分けて自分の判断だけで進まなければならないんだから。保証を求めているような段階の人には「こっちにおいで」と僕は言いません」

ハッとした。先生の言葉に、会社を辞めてからの4年間が走馬灯のように蘇った。自分らしい道は、決して楽ではない。「このままでは自分が死んでしまう」と這うように会社を辞めたのに、退職してからの方が辛く厳しい毎日だった。

未経験からライターになると決めたのはいいものの、当たり前のように仕事なんてない。飲食店のアルバイトで生計を立てながら、1本数千円の原稿料をもらい、実績を積むしかなかった。皿洗いで荒れた手を見て、惨めで情けなくて悔しくて。泣き出しそうだった。

筆者撮影

明日が見えない不安に押しつぶされそうになりながら、なぜこんなに苦しい思いをしなければならないのだ…と憤りを感じたときもあった。自分自身を信じられなくなり、「角」を自らの手で折ろうとしたときもあった。

それでもわたしは今、「生き方を伝えるライター」として生きている。心から胸を張って“自分らしい”と思える生き方だ。くじけずに歩いてこられたのは、「自分と同じように生きづらさを抱えている人の、生き方の選択肢が広がるような仕事がしたい」という炎が消えなかったから。

そうだ、そうだった…。言葉を失っていると、先生はやさしい眼差しで続けた。

本当に小径に逸れざるを得ない人は、大抵一度具合が悪くなるんです。みんなと同じ大通りを歩けなくなる。生き詰まる、悩んでしまう。

そのことを「できない人」「弱い人」とマイナスに捉えてしまう薄っぺらな世の中ですけど、逆なんですよ。「おめでとう」なんですよ。才能があるから行き詰まるんですよ。

あなたが会社を3ヶ月で行けなくなったとき、何かのご縁でここへ来ていたら、僕は言いますよ。「おめでとう。あなたに起こったことは素晴らしいことだし、人生において大事なことだよ」と。それが治療でしょう?

おめでとう───。あのとき自分がかけてもらいたかった言葉に、ようやく出会えた気がした。

「大変だよ」「考え直した方がいいよ」「応援するよ」

いろんな言葉のなかで、これほど温かな安心感に包まれたのは初めてだった。抱えていた生きづらさや劣等感が、風に吹かれ大空へ舞い上がった。

これは、葛藤しながらも自分らしい道を生きている人間にしか、言えない言葉なのかもしれない。

わたしも最初に本を出版するときは、怖かったです。

著書にまとめた内容は、従来の心理学や精神医学で学んだことを捨て去って、実際の臨床や講演会、講義から生まれたオリジナルのイメージやキーワードの集合体だったので。

数年間は出版社にアプローチしてもまったく取り合ってくれないところばかりでしたし、こんなものを世に出したら自分が社会から抹殺されるんじゃないかと思ったりもしました

でも、自分が信じる道を歩みだす。

そこから初めて”自分の人生”がはじまっていくんです。親・学校・会社・社会で当たり前とされていること、常識、ルールに影響されている段階から離脱して、もう一度生まれ変わる。自分だけのユニークな小径を歩みはじめる。

それが第二の人生です。人生、この続編の方がおもしろいですよ

にかっと笑い、愉快に話してくれた。

人生を逞しく面白がる先生の姿を見ていると、いつの間にかわたしの表情もほころんでいた。

この大きな川を飛び越えて、あっちの岸へ渡ってみようか。みんなと同じ大通りから逸れて、道なき道を冒険してみようか。そう思わせてくれる。

もちろん決して、楽な道ではない。歯を食いしばる時期も、不安で夜も眠れない日もあるだろう。でも安心して悩んでいい。葛藤していいんだ。そうして、自分だけの道を今日も逞しく生きていこう。

取材の帰り道、駅で花束のブーケを買った。他の誰でもない、自分自身へ贈る花だった。

「生きづらさ」に、おめでとう────。


泉谷閑示

東北大学医学部卒。東京医科歯科大学医学部神経精神医学教室にて研修し、その後社団正慶会栗田病院、財団法人神経研究所附属晴和病院等に勤務。

その後渡仏し、パリ日本人学校教育相談員を務め帰国。新宿サザンスクエアクリニック院長等を経て、2005年6月、南青山泉谷クリニックを開院。2008年4月「泉谷クリニック」と改称し千代田区永田町に移転。同年6月より渋谷区広尾に再移転し今日に至る。

これまで、日本人間関係学会にての特別講演、外務省・文部省共同主催フランス地区補習校授業校講師研修会(フランス・コルマール市)特別講義の講師、日本芸術療法学会研修セミナー講師、日本女子大教育文化振興桜楓会桜楓学園カウンセリング講座講師、早稲田医療技術専門学校非常勤講師、ヤマザキ動物看護短大非常勤講師、日本工学院医療カレッジ非常勤講師、東京工科大学兼任講師等を務めた。

現在、診療以外にも、一般向けの啓蒙活動として、泉谷セミナー事務局主催の様々なセミナーや講座を開催している。

ソラミドについて

ソラミドmado

ソラミドmadoは、自然体な生き方を考えるメディア。「自然体で、生きよう。」をコンセプトに、さまざまな人の暮らし・考え方を発信しています。Twitterでも最新情報をお届け。みなさんと一緒に、自然体を考えられたら嬉しいです。https://twitter.com/soramido_media

取材・執筆

貝津美里
ソラミド編集部

生き方を伝えるライター
世代・年齢・性別・国内外問わず人の「生き方」を聴き「名刺代わり」となる文章を紡ぎます。主な執筆テーマは、生き方/働き方/地域。人と人、人と想い、想いと想いを「結ぶ」書き手でありたい。
プロフィール:https://lit.link/misatonoikikata

編集

安久都智史
ソラミド編集長

考えたり、悩んだり、語り合ったり。ソラミド編集長をしています。妻がだいすきです。
Twitter: https://twitter.com/as_milanista

撮影

飯塚麻美
フォトグラファー / ディレクター

東京と岩手を拠点にフリーランスで活動。1996年生まれ、神奈川県出身。旅・暮らし・人物撮影を得意分野とする。2022年よりスカイベイビーズに参加。ソラミドmado編集部では企画編集メンバー。
https://asamiiizuka.com/

注目記事