傷つけるかもしれない。傷つくかもしれない。それでも、人と関わり合うということ。
とても怖い、人と関わり合うことが。
何気ない言葉や行動で、誰かを傷つけてしまう。悪気があるわけではない。でもギュッと強く握った拳で殴るような、そんな暴力性を秘めた言葉や行動になってしまう。それが怖くて堪らない。だから気を遣う。言葉や行動を選ぶ。誰かを傷つけないために、嫌われないために……。
一方で、誰かに不意に傷つけられることもある。悪気がないことはわかっている。でもショックだった、悲しかった。それを素直に伝えられればいいけれど、対立するのが嫌で、強張った笑顔でごまかす。気にしなければいいと自分を騙す。
誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりしたいわけじゃない。誰かと対立したいわけじゃない。だったら、人とお互いに心地よく関わり合うためには、どうしたらいいのだろう。
悩み、迷いながら、そんな問いを抱え続けていた。
この記事が、誰かを傷つけてしまわないか。
人と心地よく関わる上で、「性別」がひとつの大きな障壁になると考えていた。男性と女性、またはそれ以外の性別。体の構造も違えば、興味・関心も違う。絶対に理解し合えない大きな壁がある。だから気を遣い合って、ときには自分を偽って、関わり合わなければいけないのではないかと。
「性別」の違いに悩み、迷いながら生きてきた人となら、人と心地よく関わることについて一緒に探究できるのではないか。そう考え、取材候補者を探していた。そのときに見つけたのが、荒牧明楽(あらまきあきら)さんだった。
荒牧さんは、トランスジェンダーの当事者の方。生まれたときの身体の性別は女性で、自分が思う性別は男性であった。荒牧さんは、どんな人生を歩み、どんな課題を抱え、どうやって乗り越えてきたのだろうか。
まずは荒牧さんご自身のことを知るために、著書『トランスジェンダーの私が悟るまで』を手に取った。
書籍の中には、荒牧さんがこれまでに苦しんだ経験についてたくさんの記述があった。
男女の見えない境界線に苦しみ、不登校、自殺未遂。心を殺し女性として生きてみたものの、本当の自分ではないまま誰かと関わる違和感。性別適合手術を受け、戸籍を男性に変えたものの、完全な男性になりきれていない劣等感。トランスジェンダーの仲間を見つけ、悩みを共有し合うものの、当事者同士で争い、埋まらない虚無感。
女性、男性、トランスジェンダー、いずれの生き方をしても誰とも認め合えず、苦しみ続ける日々。しかし葛藤し続け、解決策を模索する中で、その苦しみの根本原因にたどり着く。荒牧さんは、それを「無意識の偏見(=アンコンシャス・バイアス)」と呼んでいた。
けれど、「無意識の偏見」が誰とも認め合えない苦しみの根本原因であるとは、どういうことなのだろう。
より詳しくお話を聞くために、取材をしたいと思った。でも、取材をすることで、記事にすることで、誰かを傷つけてしまわないだろうかと不安がよぎった。
荒牧さんが苦しんできたご経験を根掘り葉掘り訊いていいのだろうか。
トランスジェンダーの方に対する偏見を助長させてしまうのではないか。
より荒牧さんのことを理解した上で判断しようと思い、大阪梅田で開催された荒牧さんが登壇する出版記念イベントにも足を運んだ。
直接会い「取材をしたいけど、まだ迷っています」と伝えると、「私は友だちを増やしたいだけですから。連絡先を交換しましょう。力になれることがあれば、いつでもおっしゃってください」と笑って答えてくれた。
荒牧さんと出会えた縁を大切にしたい。それでも取材を依頼するかどうか悩んでいた。そのことを編集部メンバーに伝えたら、こう言われた。
その悩み自体も、荒牧さんにぶつけてみたらどうですか?
傷つけてしまわないか不安であること、偏見を助長させるような内容にしたくないこと、それすらも伝えてみればいいのかもしれない。取材をしてみよう。やっと心を決めることができた。
みんな偏見まみれ。
そして、取材当日。まずは自分の気持ちを率直に伝えた。荒牧さんを取材し、記事にして発信することで、荒牧さんを含めた読者を傷つけてしまうのではないか、偏見を助長することにつながるのではないかと。すると荒牧さんからはこんな言葉が返ってきた。
自分の言葉で誰かを傷つけてしまわないか。そういう不安は多くの人が抱えているものかもしれませんね。でも、それも無意識の偏見です。
自分が抱えていた悩みも、もしかしたら無意識の偏見から生まれているのかもしれない。では、無意識の偏見とは一体どのようなものなのだろう。
アンコンシャスバイアスと呼ばれる無意識の偏見は、自分の意識下にはない偏見です。無意識に出来上がった価値観や判断基準と言ってもいい。「偏見」というと悪いイメージを抱く人もいるかもしれませんが、誰しもが持っていて当たり前のものなんですよ。「偏見を持ってはいけない」じゃなくて、「偏見しか持っていない」。それぐらい、みんな偏見まみれなんです。
みんな偏見まみれ。偏見は持ってはいけないものと思い込んでいたぼくは、衝撃を受けた。
例えば優しい人といっても、人によって「優しい」は違うじゃないですか。それなのに誰かと話すとき、自分の「優しい」を元に話しますよね。それもある種、偏見です。
ある言葉から抱くイメージは、人それぞれ。それなのに、あたかも同じものをイメージしている前提で誰かと関わる。そう思うと、ぼくらは日常的に偏見をぶつけあっているのかもしれない。
そもそも「偏見はいけないもの」というのも無意識の偏見です。私は偏見に対するイメージを変えていきたいんですよね。偏見に良いとか悪いとかはない。ただの偏ったものの見方じゃないですか。
偏見に、良いも悪いもない。では偏見に対して、ぼくらはどういう捉え方をするといいのだろう。
偏見はあっていい。ただ自分がどういう偏見を持って世の中を見ているのか、それに気づいていないことが問題だと思うんです。
自分はどんな偏見を持って世の中を見ているんだろう。荒牧さんのお話を聴きながら、そんな問いが浮かんだ。
人と関わることが怖い。だからこそ、人と会う。
誰しもが持っている、無意識の偏見。それを自覚する人を増やすため、荒牧さんは教育の分野に力を入れて活動している。
無意識の偏見は、自分ひとりで気づくのは難しいんです。だから誰かが気づかせてあげる必要がある。そのひとつの手段として、目の錯覚を利用しています。目に見えるものがすべて正しいものじゃないことを自覚することで、無意識の偏見にも気づきやすくなるんです。
自分がどんな偏見を持っているのか自覚することが大切。でも、自分の偏見を自覚すればするほど、人と関わることが怖くなってくる気がする。誰も傷つけないように、言葉や行動を選び、本来の自分とはかけ離れた状態でしかコミュニケーションができない気がする。このような恐怖心とはどのように向き合えばいいのだろう。
私もそう思っていた時期がありました。恋愛でも仕事でも、素直に自分の気持ちが言えなくなってしまった。「受け入れてもらえなかったらどうしよう」「嫌われたくないな」という不安でいっぱいだった。
でも、気づいたんです。これも無意識の偏見だって。自分の勝手なモノサシで人を測ってしまっていたって。何によって傷つくかも、人によって違うものですよね。だから相手を信頼して、言ってみたり、やってみたりしないとわからない。
誰のことも信頼できず、自分の本音が言えない。関わり合うのが怖い。でも、そんな状態に陥ったときほど、「人と会うことが必要だ」と荒牧さんは言う。
他者と関わることが怖い、不安だと思うかもしれませんが、だからこそいろいろな人と会わないと。自分の殻に閉じこもっていては、いつまで経っても誰とも心地よい関係性は築けません。自分や相手がわからないって思ったときほど、人に会いに行くように私は意識しています。
0と100のコミュニケーション。
怖いからこそ、人と会う。頭では分かるけれど、乗り越えるのは難しい気がする。
荒牧さんは、年間100件以上の講演を行っているけれど、多くの人の前で自分の体験、考えを話すことに怖さはないのだろうか。
安心して講演を行えるように、必ず一番始めにお伝えすることがあるんです。
「もしかしたら、私の知識不足や解釈で、間違っていること、気に触るようなこと、傷つけるようなことがあるかもしれません。先に謝っておきます。すみません。ただそのようなことがあれば、絶対にすぐに言ってください。
私が悪気なく話しているんだろうなと思ったとしても、教えてほしいんです。あと私に対して気を遣う必要もありません。思ったことは全部言ってください。怖さがあると思いますが、伝えてくれる方が嬉しいです」と。
このようなコミュニケーションのことを荒牧さんは「0と100のコミュニケーション」と呼んでいる。
人の話を聴くときは、自分の思いや観点、価値観は一旦隅に置いておく。相手が何を伝えようとしていて、どうしてそのようなことを発言しているのか、自分は0の状態になって聴く。一方で自分が話すときには、相手がどう思うか、どう捉えるかは一切気にしない。気にすると言葉が曲がってしまうから。自分の思っていることを100%出し切る。
そういうコミュニケーションが理想的だと思うんです。一人でもいいので、0と100のコミュニケーションを行える相手を見つけてほしいですね
0と100のコミュニケーションならば、人と関わるときに抱く怖さは軽減されるかもしれない。0と100のコミュニケーションを行う上で、何を意識しておくといいのだろう。
私たちが相手から受け取れるものは、その人のほんの一部だけなんですよ。正確とは言えないわけです。それに、自分が伝えたいことを100%言葉や行動にすることもできません。そこに自覚的になることですかね。
「良かった」と言っても、良かったという言葉の意味が違う。「笑った」としても、本当に笑っていたのかはわからない。つまり私たちの五感は物事を完璧に正しく受け取れるわけじゃないし、表現できるわけじゃないんです。
自分が受け取った言葉、自分が見えているもの、感じていることが、相手も同じとは思わないこと。それを常に頭に入れておいてほしいですね。
自分や相手のことをわかっていると思っていても、結局それはズレていくんですよ。そこから人間関係の問題が生じていきます。いい意味で期待はし過ぎないことですね。
自分をわかった気にならない。相手にも、自分のことをわかってくれるはずだと期待しない。誰かと心地よいコミュニケーションをするには、そう意識しておくことが必要なのかもしれない。
それがわかってくると、コミュニケーションの質が変わってくると思います。受け取った言葉や見えているものを信じないというか。その人が発した言葉、その人がとった行動の裏には、どのような背景があるのか。何が元になってそういう考え方になったのか。それを瞬時に考えるようになります。
私は誰かとお話するときに、よく質問するんですね。「今の言葉や行動はどのような思いからきているんですか?」って。
人の言葉や行動には必ず背景がある。聞こえていない、見えていない部分にこそ、その人の本当の思いが隠れているのかもしれない。
勇気を出して、偏見のルーツを辿る。
自分がどんな偏見を持っているか自覚できたら、「その偏見が出来上がったルーツを探ることも大切だ」と荒牧さんは語る。
なんの影響で、どういうふうにして自分の考え方が出来上がったのか。そのルーツがわかると、偏見も変えていけるんですよね。出来上がった仕組みがわかるので。大体の場合、ルーツは小さい頃に受けた親や周りの大人たちの影響によることが多いです。周りの環境に大きく左右される。
例えば、魚がどういう魚になるのかって海の環境に影響を受けるじゃないですか。めちゃくちゃ海が汚かったら魚は病気になるし、綺麗だったらすごく健康的な魚になるだろうし。
だから、自分のルーツを知りたければ、自分が生まれ育った家庭や時代を知る必要があります。主観的に物事を考えないように、私がセッションやカンセリングをさせてもらうときは生まれ育った周りの環境がどうだったのかを聞いていますね。
小さい頃の記憶。ほとんどのことは忘れてしまったが、強く鮮明に残っているものもある。それはどちらかというと辛い記憶。
「親にいい子にしなさいと怒られて苦しかった」
「学校で宿題を忘れて恥ずかしかった」
思い出すだけで少し心が痛くなるような、そんな過去。そこを探っていくのは、正直辛い。
以前、友人からも同じようなことを言われたことがあります。「言ってることはわかるよ、理屈では。でも、私は昔の自分が本当に嫌で、記憶を消して、書き換えて、今のアイデンティティを築いてきたから、1度忘れた記憶を呼び起こされると、きっと今の私は崩れてしまう」と。
呼び起こしたくない記憶は、そのままにしておいてもいいのではないだろうか。苦しんでまで、ルーツを探る必要性はあるのだろうか。
自分の考え方に納得していて、変えたくないなら、私はそれでいいと思います。でも変えたいと思っているのに変えられず、ひとつの偏見にとらわれていると、何かしら不調が起こるんですよ。
友人の場合は、常に気を張っていて、ピリピリしている。だから見ていて、苦しそうなんですね。いつも無理をしている感じ。本人もそれは分かっていて、変えたいと思っているんですけど、その偏見が出来上がったルーツを見るのが怖いみたいで。ずっと葛藤しているんです。
だから「勇気をもし持てるんだったら、ちゃんと向き合ってほしい」って伝えています。自分のルーツを探るのには、勇気が必要なんですよね。
自分自身に対する偏見が一番強い。
荒牧さんご自身も、ある偏見にとらわれ、ずっと上手く行かない日々を過ごしていたという。
私は誰もが自分らしく生きることができて、誰もが認め合えることができる、そんな世界を作りたいと思っていました。でも同じようなトラブルが繰り返し起こったんですよね。家族関係でも、学校でも、仕事でも、恋愛でも、誰ともわかり合えず、何度も苦しみました。
それは、私自身が「私のことを誰もわかってくれない」という無意識の偏見を持っていたからなんです。わかってもらえないから、がんばっていた。でも、わかってもらえないという偏見にとらわれていたから、どれだけがんばってもわかってもらえない。
誰もが認め合える世界を作りたいと思っていたけど、そもそも自分が自分を認めていなかった。だから究極に孤独だったんです。
自分は誰にも認められない存在だ。孤独な存在だ。そう自分を自分で決めつけていた。それに気づいたとき、全身から力が抜けたという。
自分が自分と一番分離していた。だから、周りとも分離するようなことが起こったんです。それに気づいたとき、切り離していた自分に「ごめんね」と心の中で声をかけました。そうしたら深い愛情に包まれたんですよね。
自分と自分の分離。その言葉を聴いたとき、自分のひとつの偏見に気づいた。自分は自分に対して「誰かを傷つけてしまったり、傷つけられたりする存在だ」と勝手に思い込んでいるのかもしれない。
もしかしたら小さい頃に何かしらの経験を通して、誰かを傷つけてしまったり、誰かに傷つけられたりして、それが心に強く残っているのかもしれないですね。それで自分自身にそういう偏見を持ってしまっている。
でも周りの人からしたら傷つけられたとは思っていないかもしれないし、傷つけたとも思っていないかもしれない。そういう可能性だってありますよね。
たしかにそうだ。相手とちゃんと話をしたわけではない。自分がただそう思い込んでいるだけなのかもしれない。
誰しも、自分自身に対する偏見が一番強いんですよ。それで本当の自分と、自分が思い込んでいる自分に大きな差が生まれてしまう。その差を取り除けて、他者との差も取り除けた状態を私は「差取り(悟り)」と言っています。自分という言葉はおもしろいですよね、自ら分けるとか、自らを分かるとか。
自分と向き合うだけじゃ、自分も他者もわからない。
人間の脳は“分かる”ために、“分けて”考えるようにできているそうだ。男性と女性、良いと悪い、自分と他者などなど。分けることではじめてさまざまなことがわかる。自分はこういう人間だ、他者とはこう違うのだという偏見があるから、自分という存在をわかることができる。
偏見とはつまるところ、世界をどのように分けているかということなのかもしれない。しかし、荒牧さんは「自分が持つ偏見だけで世界を見ている場合、それは自分に対しても、他者に対しても、わかった気になっているだけだ」と言う。
一人ひとりが、あなたという人間をどう捉えるかは違うわけですから。もったいないですよね。自分が思い込んでいる自分という小さな枠に収まったままだと。自分と向き合うだけじゃ自分なんてわからないんですよ。他者と関わることでしか気づけない部分もある。
それは他者に対してもそうですね。言葉を聞いたり、行動を見たりするだけでその人をわかった気になってしまう。自分の偏見だけで判断してしまう。自分の頭の中だけで考えていたら、誰のこともわからないんですよ。
多様性の時代なんて言われていますけど、「みんな違ってみんないい」という広まり方には危機感を覚えています。それはただの無関心ですから。本当の自分とはなんなのか、他者が発する言葉やとる行動の裏にはどのような背景があるのか。そういう問いを立ててもらえたらと。そうすれば、「差取り」の世界に近づいていくんだと思います。
インタビューが終わった後、荒牧さんは「佐藤さんのことももっと知りたい」とおっしゃってくださった。30分ほどだっただろうか。自分がどんな幼少期を過ごしてきて、どんな思いを抱いて生きてきたのかお話させてもらった。遮ることもなく、とても穏やかな表情で、じっくりとぼくの話を聴いてくださった。それこそ自分0の状態で。そんな荒牧さんだったからこそ、ぼくは100%思っていることを素直に伝えられた気がする。
取材をすることで、記事にすることで誰かを傷つけてしまわないか。そんな不安を抱きつつも、勇気を出して荒牧さんと関わり合った。そのおかげで、自分が抱いていた不安は、自分に対する偏見なんだと気づくことができた。この偏見が決して悪いわけではない。でも、変えていきたい。
まずはたった一人でもいい。傷つけてしまうかもしれないけれど、自分の思いを素直に伝えられるようにしよう。傷つけられてしまうかもしれないけれど、相手がどうしてそう伝えてきたのかを考えよう。そのようなコミュニケーションを通して、少しずつ自分のことも、相手のことも、認め合えるようになれたらと思う。
荒牧 明楽(あらまき あきら)
OVER THE RAINBOW 代表
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NPO法人カラフルチェンジラボ 理事
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nTech Online Univ. 学長
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「真のダイバーシティ&インクルージョンを実現」するために、「明るく楽しく自分らしく」をモットーに、自由自在な生き方を多くの人に提案できるよう企業や学校、行政機関などで研修や講演活動を行っている。
ソラミドについて
ソラミドmadoは、自然体な生き方を考えるメディア。「自然体で、生きよう。」をコンセプトに、さまざまな人の暮らし・考え方を発信しています。Twitterでも最新情報をお届け。みなさんと一緒に、自然体を考えられたら嬉しいです。https://twitter.com/soramido_media