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他人の人生ではなく、自分の人生を生きるために。東大寺僧侶・森本公穣さんに聞いた、自らの頭で考えることの大切さ

他人を気にしすぎてしまい、自分に自信を持てなくなってしまうことがあります。

あの人にどう思われるんだろう

あいつはあんなに頑張っているのに、俺なんて

本当は、いまのままでいいはずなんです。他人がどうあっても、問題はないはずなんです。自身で選んだ道に自分が納得さえしていれば。

それなのに、どうしても他人の影がちらついてしまう。これで良かったんだっけ、と自分を疑ってしまう。

いったいどうしたら、他人から自由になり、自分の人生を生きられるんだろう――

悩んだ末に僕が向かったのは、華厳宗の大本山である東大寺のもとでした。

とあるご縁から、学生時代にお世話になったことのある東大寺。2500年前から人々を導いている仏教では、他人をどう捉えているのだろう。

そこに自分の人生を歩むヒントがあるのではと思い、僕は8年ぶりに東大寺を訪ねることにしました。

そんな僕の悩みをじっくりと聞いてくれたのが、東大寺僧侶の森本公穣(もりもとこうじょう)さん。悩みをお伝えして返ってきたのは、さまざまな仏典からの言葉を引用しながらの、膝を打つようなお話の数々でした。

他人の人生ではなく、自分の人生を生きたい。そう願っている方は、なにかしらのヒントを持ち帰っていただけると思います。

森本公穣
華厳宗東大寺塔頭清凉院住職。昭和43年東大寺に生まれ、15歳で得度。龍谷大学大学院仏教学専攻博士課程修了。大仏殿副院主、東大寺図書館副館長、東大寺福祉事業団常任理事、東大寺学園常任理事などを経て現在、東大寺庶務執事。

自分の判断軸を持てないのは、“愚か”なこと

他人の活躍が目に入ってしまうと、自分の頑張りを認められない。自分のことに集中すればいいのに、どうしても他人が気になってしまう。そんな僕の悩みを正直にお伝えすると、森本さんからひとつの問いを投げかけられました。

他人が気になるって、どのように気になるんやろうね。他人をどう捉えているんやろう。

少し考えると、僕のなかでは“勝敗が決まる相手”だと捉えていることに気付きました。

例えば、僕はライターを名乗っているので、嫉妬するような上手い文章に出会ったときには、「あぁ負けた」と思ってしまいます。細部の表現までこだわった圧巻の文章を読んだときは、「自分なんてダメだ」と感じてしまう。

たどたどしく語ると、森本さんは「比較自体が悪いわけではないと思うんやけどね」と前置きして、お話をはじめました。

他人を勝敗の関係で見るということは、その人に勝ちたい、その人に認めて欲しいって欲望の裏返しなんやと思う。でもその生き方を続けていると、他人のものさしでしか自らを測れなくなるんちゃうかな。自分のことを自分で評価できなくなってしまう。

確かに、他人との勝敗を気にするということは、つまり他人との勝ち負けのなかでしか自分を捉えられていないということ。そこには常に他人が介在していて、僕自身の判断軸が存在していません。

他人との優劣のなかでしか自分の位置を見出だせない。それはとても怖いことです。けれど、それは分かっているのに、どうしても他人が気になってしまうのはなぜなんだろう。そうお聞きすると、森本さんから一言。

厳しい言い方をすると、愚かやから、やね。

愚か。普段聞くことのない強い単語にドキっとします。続けて、仏典のとある言葉を紹介してくれました。

「愚かな者は、努め励むことを知らないで、ただ良い結果を求める」という言葉があって。

要は、自分で自分の価値を定めて、自身の持っている能力や才能を最大限発揮することを考えろ、ということ。その努力をせずに、ただ他人と比較しているばかりなのは、愚かな証なんやろうね。

そのためにも他人のものさしではなく、自分のなかに判断軸を作らないといけない。

そもそも、他人のものさしで生きるのは楽なこと。自分の頭で考えずに済むってことやからね。でも、それやと正しい生き方はできない。他人じゃなく、自分の足で自分を確立させんとあかん。

正しくなくていい、間違っていてもいい

他人と比べてばかりでは、自身の判断軸が育たない。それは確かにそのとおりだと思います。なにが正しくて、なにが良いのかの基準が他人になっていると、それは僕の人生を生きているとは言えない。

けれど、僕は自分の判断軸に自信がないからこそ、その判断を他人に委ねてしまっているのだとも思います。だったら、自分が正しいという確信がないなかで、なにをよりどころにすればよいのでしょうか。

そうお聞きすると、森本さんから「間違っている可能性に自身を開くことが大切」という言葉が返ってきました。

自分の判断軸を持つということは、自分が絶対的に正しいと思うことではないんや。より良い考えに出会ったら、それを受け容れたらいいし、違和感のある考えに出会ったら、それをはねつければいいだけの話。柔軟に変化させることが大事なんちゃうかな。

自身の考えは持つ。けれど、頑固になってはいけない。だからこそ、「他人に影響されること自体が悪いことではない」ともお話してくれました。

他人の方が正しい考えを持っていることもあるし、他人と比べて自身の間違いに気付くこともあるからね。問題なのは、他人の意見や判断を自分のフィルターを通さずに受け容れること。あくまでも判断基準となるものは自身で作り出さんとね。

例えば、と紹介してくれたのがこの言葉。

「自らを灯火にし、自らをよりどころとせよ。他を頼りにしてはならない。仏の教えを示した真実の法を灯火とし、よりどころとせよ。他の教えをよりどころにしてはならない」

って言葉にあるように、他者の意見を基準にしたらあかん。大切なのは、まず自分で考えることなんやろうね。

僕はいままで、自分の判断に自信がなかったために、基準を他人に委ねてしまっていました。けれど、自身の判断は正しくなくてもいい、間違っていてもいいんだ。

大切なのは、自分で判断軸を定めること。その正誤ではない。そう教えていただいて、少し心が楽になった気がします。

30000日という終わりを意識する

自らを灯火にする。その大切さは分かりました。他人を判断基準にする愚かさも。けれど、すぐに他人と比較しない自分になれるとは思えない。結局、頭で理解しただけで変われないのではないかと考えてしまいます。

そんな弱音をこぼすと、森本さんからひとつの問いが。

80歳まで生きたとしたら、何日間の人生になると思う?

頭のなかで計算してみると、約30000日。

そう。80歳まで生きても、人生はたった30000日で終わってしまうんやで。残された日にちはもっと少ない。なのに、1日って気が付くと終わってしまうものやんか。あっという間に終わりは来る。そう考えると、1日1日を大切にしようと思えるやろ?

普段生きているなかで、人生の終わりを考えることは多くはありません。このままずっと人生は続いていくものだと、変わらずに過ごしていくものだと思っていました。

けれど、いつか絶対に終わりは来る。生きている以上、過ごす1日は死に向かっている1日。そんな当たり前の事実を自覚すると、日々の捉え方が変わってくる。

終わりや全体を把握することが大事なんやろうね。30000日は、多少の違いはあれど大幅に増えることはない。死ぬことは想像しにくいかもしれんけど、人生が有限なのは間違いないからね。そう考えると、他人の人生を生きる時間なんて馬鹿らしいと思うんちゃうかな。

他人と比べて落ち込んでいる間にも、僕の人生は死に向かっているのか。

死に思いを馳せている僕に向けて、森本さんが教えてくれたのは「人の欲には果てしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きがとまらないのに似ている」という言葉。

他人によく見られたい、他人の上に立っていたい。そんな欲を追い続けていると、それだけで人生は終わってしまいます。それは嫌だ。自分の人生を生きたい。

いまを大切にしたいのなら、終わりを意識すればいい。30000日。それを合言葉に終わりを思い出す習慣をつけることができると、その習慣は正しく生きるための一歩目になるのかもしれません。

捉え方ひとつで、世界は変わり得る

「それでも、自分の人生を生きることは難しいんやけどね」と話す森本さん。「自己に打ち克つことは、他の人々に勝つことよりも優れている」という言葉もあるとのこと。

では、その難しさを乗り越えるにはなにが必要なのでしょうか。

そうお聞きして返ってきたのは、仏教のお経が持つ多様性の話。お経には数え切れないくらいの種類があるけれど、元々はひとつの教えだったんだそう。

元をひとつにするお経が多様な種類に分かれた理由は、お釈迦さまの考え方にありました。

お釈迦さんは、人によって伝え方を変えないと自分の教えが正しく伝わらない、と考えてらしたんやろうね。AさんにはAさんに合った教え方を、BさんにはBさんに合った教え方を、って。

それが後世に文字で纏められたから、お経にはたくさんの種類がある。けど、それは切り口や見方が違うだけで、全部同じものなんや。

なるほど、そうやってたくさんのお経が生まれたのか。けれど、それが自分に打ち克つこととなんの関係があるのだろう……?

そう思っていた僕に、森本さんがお話してくれたのは「同じ事実があったとしても、その人の心の持ちようによって見え方は変わる」ということ。

お経に多くの種類があるように、ひとつの事柄でも、その人によって捉え方は変わってくる。その捉え方を決めるのは、その人の心の持ち方。要は、環境そのものが変わらなくても、心の持ち方が変われば人生のあり方は変わるってことや。

続けて紹介してくれたのが「心造諸如来」という言葉。心は諸々の如来を造る。つまり、心を正しく持っていれば、心のなかに仏様が生まれるということ。逆に言うと、正しく持てていなければ、その心には悪魔が生まれるということです。

いまは不確実な時代って言われているから、不安が尽きないのは仕方ないかもしれない。でも、その不安に飲み込まれているばかりではあかんのやろうね。不確実な時代は、ひとつの見方では安定とは程遠い時代。

でも、角度を変えると、変化に富んでいる時代ということでもある。自分の手で変えられるチャンスが大きいって考えれば、時代の捉え方は大きく変わるんやで。

同じ状況下でも、心の持ち方によって見える景色は変わる。

思えば、他者と比較して落ち込んでしまうのは、物事が上手く運ばないとき、言い換えると、心が乱れているときです。心が穏やかなときは、優れている他人を見てもなんとも思わない。

つまり、他人が優れているから落ち込んでしまうのではなく、自身の心のあり方が反映されるからこそ落ち込んでしまうということ。

他人の存在自体は変わらずとも、自分の心をどのように保つかで、他人の人生を生きるのか、自分の人生を生きるのかが決まる。心さえ正しく持てていれば、自分の人生を歩むことができるということです。

仏教が導く、自ら考えることの価値

心を正しく持つ。

聞こえはいいですが、それが非常に難しい。疑心に惑わされない、自分のことに集中する。そんな心の正しさを持つには、どうしたらよいのでしょう。

「そのためには、まず自分に嘘をつかないことやね」と語る森本さん。

SNSが広まって、他の人の生き方がタイムリーに目に入るようになったから、自分を大きく見せたくなるのは分かる。けど、そこで本当の自分より大きく見せようとしても意味はないんちゃうかな。

見栄を張るということは、自分を騙すということ。他の人は気付かなかったとしても、自分だけはその嘘を知っているからね。その嘘は心が乱れることに繋がる

こんな言葉もある、と教えてくれたのは「たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称賛する」という言葉。

自分がいま持っているものは変わることがない。だったら、その事実を認めることから、始めるといいのかもしれません。

森本さんのお話にうなずきながらメモをとっていると、最後に驚きの一言が。

こうやって僕が話していることを、なるほどなと思ってくれているかもしれんけど、それを素直に受け容れるのは実は仏教的じゃないんやで。

メモをとる手が自然と止まる。僕からご相談しているのに、いただいた教えを受け容れることは仏教的じゃない……?

少し困惑していると、森本さんがお話を続けてくれました。

お釈迦さんが説いたことも、それをただ勉強して頭に入れるだけでは、本当に自分のものにはならん。それでは、お釈迦さんっていう他人の軸で生きていることになるからね。

教えを自分のものにするには、まずその教えを疑わんとあかん。こうおっしゃっているけど、それは本当に正しいのかって。疑って、自分の手や頭で考えて、やはり間違いないと自分で思うことによって、教えは初めて生き方の指針になるんや。

教えを鵜呑みにするだけでは、自分の判断軸にはなり得ない。

心を正しく持つには、自分の頭で考えんと。本を読んだり、人に教えを請うことも大事やけど、それだけやと単なる知識で止まってしまう。自分の頭で考えて、心のなかに一本の筋を作らんと、ずっと他人に影響されたまんまや。いつまでたっても自分の人生は生きられへん。

自分の頭で考えてたどり着いたものこそ、自身の人生の指針になる。逆を言うと、ただ本を読んで感銘を受けた内容や、ただ話を聞いて納得したものは指針にはならない。

悩んでいるとき、苦しんでいるときは、救いを求めて他人の考えに縋ってしまいがちです。もちろん、他人の考えを聞くこと自体が間違っているわけではない。

けれど、心が乱れているときは、その考えをそのまま受け入れてしまうことが多い。

他人の考えに縋ることは、自分の頭で考えるよりもはるかに楽なことです。心も一時的には救われるかもしれない。

それでも、その救いは長続きしない。自分の足で立っているわけではないから、またすぐに他人に縋りつく必要が出てきてしまう。

そうならないためにも、自分の頭で考える。自身の生き方を自分で決める。その選択を積み重ねた先で、はじめて心を正しく持てるのかもしれません。

僕もあなたも愚かなんだ。だから考えるんだ。

今回、森本さんからお話を伺って分かりました。他人から自由になるための答えなんてないのだと。

もちろん「こう考えるとよい」というヒントは存在します。けれど、そのヒントは答えではありません。それを答えとして捉えると、思考停止で受け容れてしまう。その瞬間に、答えは答えでなくなってしまう。その瞬間から、他人の人生を歩むことになる。

きっと、自分の判断軸を作るのは簡単なことではないんだと思います。

取材中、森本さんは繰り返し「2500年前から人々は同じようなことで悩んでいる。人間は愚かな生き物なんやな」とお話していました。

そう考えると、悩み続けるのが人間の宿命とも思えてきてしまいます。では、そこに希望はないのでしょうか。

僕はそう思いません。誰しもが悩み続けているからこそ、自分の頭で考える価値がある。簡単にたどり着ける答えはないからこそ、各自が自分なりの答えを見つけることができる。

その道は険しいかもしれません。わかりやすい答えめいたものに引っ張られそうになることもあるはず。

それでも悩み、自分の頭で考え続けることこそが、他人ではなく自分の人生を歩むということ。

伺ったお話をもう一度考えることから、僕の人生を再スタートさせたいと思います。


ソラミドについて

ソラミド

ソラミドは、自然体な生き方を考えるメディア。「自然体で、生きよう。」をコンセプトに、さまざまな人の暮らし・考え方を発信しています。Twitterでも最新情報をお届け。みなさんと一緒に、自然体を考えられたら嬉しいです。https://twitter.com/soramido_media

取材・執筆

安久都智史
ソラミド編集長

聴いて書いたり、読んで編んだり、語り合ったり。「青春」と「できずとも繋がる働く」が探究テーマ。妻がだいすきです。
Twitter: https://twitter.com/as_milanista

撮影

久保秀臣
フォトグラファー

1976年生。B型であることを誇りに思う典型的なB型。
同志社大学卒業後、オーストラリア、アメリカなどを放浪。
現在は、神戸を拠点に水中からドローンまで撮影。

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