私の感性も捨てたもんじゃない。人生の学校Compathから教わった、人間であることの学び
「人生を見つめ直すって、大切なことですか?」
そう聞くと、多くの人が頷くと思う。けれど、こう問われるとどうだろう。
「あなたは、一度立ち止まって人生を見つめ直していますか?」
頷きの代わりに、こんな言葉が返ってくるのではないだろうか。
立ち止まるのが怖いんです……。置いていかれる気がして立ち止まれないんです……。
人生を見つめ直さないと、自分らしく生きられないのは知っている。なのに、立ち止まれない。走り続けてしまう。
そして、限界を迎えて初めて思う。もっと早く立ち止まれば良かったと……。
他でもない僕も、そう思ったうちのひとり。人生を考えることから逃げ続けて、ぶっ倒れてしまったことがある。
あのときの僕は、どうしたら良かったのだろう。回復したいまでも、そんなことを思うことがある。そう考えているときに出会ったのが、人生の学校フォルケホイスコーレだ。
どうやら、人生を考える学校があるらしい
フォルケホイスコーレとは、デンマークにある学校。国内に70校ほど存在する、17歳以上なら誰でも入学できる学校だ。
学校といっても、何かを教わるのではない。試験もなければ成績をつけられることもない。全寮制の学校として、年齢や国籍が異なる仲間と同じ時間を過ごし、人生につながる種を蒔いていく。
そんな不思議な学校の存在を知り、実際に作っている人にお話を聞いてみたいと思った。そして調べていくうちに、日本でもフォルケホイスコーレをモデルにした学校を作っている人たちがいることを知った。
School for Life Compath
それは、遠又香さん、安井早紀さんのおふたりが立ち上げた、北海道東川町にある人生の学校。7泊8日から、2,3ヶ月のコースまで、対話や手を動かす体験、仲間との共同生活を通して学ぶ、複数のコースを開講している。
仲間とひたすら話す、一緒に料理を作る、町の職人さんと一緒に木工クラフトを作ってみる……体験のたびに、自分と丁寧に向き合う。雄大な自然のなかで、余白を味わい、新たな一歩を踏み出すきっかけとなる時間。学業じゃない学びがそこにはある。まさに、人生の学校だ。
ここには、人生を考えたいと思った人たちが集まっている。彼ら彼女らが集まる場所を作っている、遠又さん、安井さんは「人生を考えること」をどう捉えているのだろう。
そこには、おふたり自身の悩み、気付きがあった。そこには、多くの人と触れたからこそ見えてきた、大切な核があった。
この記事自体が、人生を考えることとなりますように。そんな願いを込めて、おふたりへのインタビューをお届けします。
私もあなたも、自分らしく生きることはできないのか
School for Lifeと銘打ったCompathを始めたおふたり。そもそも、どういった想いが起点になったのだろう。
元々、高校生キャリア教育やキャリア支援を行っていました。でも、支援を進めていると、新卒採用のルールに従ったことで「やっぱり違う」となる人を多く見るようになったんです。
そこで思い出したのが、高校生のときに留学したアラスカでの体験でした。アラスカでは「将来こういう人間になりたいから、これを学びたい」って考えている人ばかりなんです。もしかしたら、こういった時間が足りないんじゃないか、って。何をするのかというよりも、どういう人間になるのかを考える時間があったらいいな、って。
遠又香さん
慶應義塾大学総合政策学部卒。15歳のときにアラスカの2000人の村に単身留学。現地でのキャリア教育に感銘を受け、日本の教育をより良くしたいと志す。大学時代は高校生、大学生向けのキャリア教育を提供するNPO法人で活動。
卒業後は、ベネッセで高校生向けの進路情報誌の編集者として働いた後、外資コンサルティング会社に転職。企業の働き方改革支援や教育系のNPO法人のコンサルの仕事に従事。
並行してデンマークのフォルケホイスコーレにヒントを得た“人生の学校“の設立を構想し、2020年4月に株式会社Compathを設立。2020年7月より北海道東川町に移住。
教育的な視点から、自身を見つめる時間の必要性を考え始めた遠又さん。一方で、安井さんは“働く”という視点から、同じ着地点に辿り着いていた。
私は、大学時代に教育系NPOで活動していたんですけど、教育だけじゃ社会は変わらないと思って、違う領域で働いていました。会社では、人事という「働くことを考える立場」に。そこで新卒採用や中途採用に関わりはじめ、就活・転職の理不尽さに触れるようになったんです。
面接のために仮面を被る必要性に駆られたり、周りから置いていかれる恐怖から焦って意思決定したり。
それってなんか違うよなって。それで幸せになれるんだっけって……。
安井早紀さん
幼少期はイギリスで過ごす。慶應義塾大学在学中は“教室から世界を変える”NPO法人 Teach For Japanに勤務。大学卒業後は(株)リクルートに入社し、6年間人事総務/中途採用/新卒採用に従事。特に地方と海外を舞台にした大学生向け次世代リーダー育成プログラムの、プロジェクトリーダーとして注力。
2018年、島根に移住して地域・教育魅力化プラットフォームに参画して「地域みらい留学」の事業づくりに従事する。
並行してデンマークのフォルケホイスコーレにヒントを得た“人生の学校“の設立を構想し、2020年4月に株式会社Compathを設立。2020年7月より北海道東川町に移住。
人がもっと自分らしく生きられたら、もっと自分のペースで生きられたら――
そう思いつつ、どこか諦めも抱いていたという。
仕組みが変わらないと、結局はそこに適応しようとしてしまう。そして、自身を仕組みに当てはめようとしてしまう。教育のその先の出口が変わらないと、教育はどうしても受験産業になってしまうのかもしれない、と思っていました。
強い人じゃないとありのままでは生きられない、と思うようになっていましたね。人は、我慢しないといけない。常識は動かせないんだ、って。
別々の観点で抱える悩み。そんな鬱々としたものが吹き飛んだのは、ひとつのきっかけ。フォルケホイスコーレとの出会いだった。
Compathは、他でもない私たちのため
フォルケの存在は知っていました。でも、実際に行って、フォルケに通う人の表情や暮らし方を見ることができたのは大きかったですね。
たまたま休みが合ったから、というだけの理由で、共にフォルケホイスコーレに行ったおふたり。そこでの経験は、いかに常識に縛られていたかを痛感するのに、十分すぎるものだった。
フォルケに対して最初は疑心暗鬼だったんですよ。留年・浪人と学年が遅れるごとに名前がつく日本で育ったので、デンマーク人もフォルケに行くことは他の人と比べて自分だけ止まっているかのような葛藤があるはずだ、と。
そこで、「周りから遅れてしまうことは不安じゃないんですか?」って、フォルケにいるデンマーク人に聞いてみたんです。
そしたら、不思議そうな顔で聞き返してくるんですよ。「え、遅れるってなにから?」って。
日本では、受験や新卒入社のタイミングがみんな一緒だから……って說明はするんですけど、全く伝わらなくて(笑)。
「どうやって、あなた達は他の人と比較しているの? 一人ひとり違うのに」とも言われましたね。
改めてそう聞かれると、あれ……?とたしかに思う。一人ひとりスタートもゴールも違うはずなのに、比べる意味ってなんなのだろうと。
「比較できるのは、昨日の自分とだけだよ」って18歳の子から言われて、ハッとしたんです。私たちが動かせないと思っていた常識は、常識なんかじゃないんだって。
デンマークの人と話せば話すほど、仕組みのなかでいかに賢く生きていくかを考えていたことに気付いて、自分が嫌になってくるくらい。
そこからですね。フォルケみたいな場所が日本にも欲しい、人生を見つめ直す場所と機会が欲しいって思い始めたのは。
誰かのためではなく、自分たちのため。Compathの主語は、あくまでも「私たち」だった。
余白に、自分だけの意味付けをしよう
お聞きすればするほど、人生を見つめ直す場所が身近にあったらいいよなぁと思う。けれど、一方で怖さもある。人生を見つめ直すということは、足を止めるということ。もう一度走り出せるのだろうか、止まってもいいのだろうか。そんな声が聞こえてくる気がする。
そんな不安とは、どのように向き合えばいいのだろう。そうお聞きすると、「私たちも模索中なんですけどね」と前置きして語ってくれた。
立ち止まる、って言うと、「止まる」イメージが強くなってしまうんですけど、その時間はきっと、未来に繋がるはず。
いつもの場所から離れて、人生を棚卸ししながら、次の一歩を見つけるための時間。そう捉えると、「止まる」を超えた感覚を持てると思うんです。
「止まる」と聞くと、マイナスの印象を持ちますけど、きっとそうじゃない。新しい何かを得るための時間だ、と捉えるだけで、前向きな勇気が湧いてくるんだと思います。
たしかに、人生を見つめ直すことを「何も生まない時間を過ごす」ことだと思い、躊躇しているのかも。止まることで新たに得られるものもある、か。
何が正解なのか分からない世界ですからね。そんな世界を生きるためには、ちょっと視点を変える時間を持つことが大切になる。弱い人だから、とか、強い人だから、とかじゃなく、誰しもに必要なもののはずなんです。
世界を見る角度が変わることで、いままで見落としていたものを発見できるのかもしれない。こっちに進めばよかったんだ、とまだ見ぬ道を見出だせるのかもしれない。
立ち止まることには、そんな可能性がある。
私たちは、その可能性を「余白」と呼んでいて。余白があるから、未来を描ける。でも、その余白の捉え方は、人によって異なっていていいと思うんです。
大事なのは、余白に対して自分なりの定義をすること。例えば、Compathに参加してくれた人が「余白って、走っているときと止まっているときの景色の違いを、味わうためにあると思うんです」って言っていて。
そうやって、自分だけの意味付けが生まれると、余白は「何もない真っ白なもの」から「何かを得るためのもの」になるはずなんです。
そうお聞きして、僕はCompathのHPに載っている言葉を思い出した。
大人になっても、寄り道は心がときめく
あ、余白って、寄り道なんだ。ちょっと違う道を歩いて、そこにしか咲いていない花を見つけ、世界の豊かさを実感することなんだ。
もしかしたら、それが、僕だけの余白への意味付けなのかもしれない。
人生を見つめ直すって、あったかいもの
寄り道。そう捉えると、人生を見つめ直すことも楽しそうに思えてくる。まだ聞こえない自分の声という花を、どのように探そうかと。
そんなお話をしていると、安井さんが「大事なことなんですけどね」と伝えてくれた。
人生を見つめ直す、ってひとりではできないんです。
……僕のイメージだと、ひとりで自身と向き合う時間だった。自分と対話して、埋もれている声を掘り起こす感覚。でも、どうやらそうじゃないみたいだ。
ひとりで人生と向き合いすぎると、自分の思考の深みにハマってしまうんです。特に真面目に考えてしまう人は、自分に矢印が向いてしまって、「あれは私が悪かったんだ」って。余白があるからこそ、自らを責めてしまう可能性もある。
もちろん、ひとりでひたすらに休む時間も大切です。でも、そこから一歩進もうとするタイミングでは、他者と共に過ごす時間が重要になる。他者がいるから見つかるものもありますしね。
そう言われて思い返すと、ひとりだと堂々巡りに陥ってしまうことが多かった気がする。一方で、誰かに話すことで悩みが軽くなったり、新しい視点をもらえたり。そんな経験があったことも思い出した。
そもそも、人生を見つめ直したいと思うくらいに悩んでいる時点で、自分ひとりでなんとかしようとするのが間違っているのかもしれない。
人生を見つめ直すって、きっとあったかいものなんですよ。淡々と向き合って悩むんじゃなくて、誰かと分かち合う体温のあるもの。
誰かと話すことで「あなたって優しいよね」とか「コーヒー淹れるのうまいよね」とか、自分で見えていなかった面に気付くことができる。そうやって少しずつ自分を再発見して、歩みは進んでいくと思うんです。
僕の人生を見つめ直すために、他者が必要になる。その構図は面白い。「他者は自分を映す鏡だ」という言葉があるように、自分のことは自分だけでは分からないんだろうな。
だから、Compathのプログラムでも、暮らしのなかの学びを大事にしているんです。実は、カリキュラムから学ぶことよりも、それ以外の時間から感じることの方が多くて。
他の誰かと共に過ごす時間で、いろんなことを発見する。そして、そこから新しい道を見つける。他者との触れ合いのなかに、次の一歩につながる触媒がいっぱい転がっている感じですね。
多様性はめんどくさい
「とは言うものの、年齢も出身地も特性も違う誰かと一緒に暮らすって、めちゃくちゃ大変なんだよね」と笑い合うおふたり。
今日の晩御飯はどうする? 居心地よく過ごすための部屋のルールはどうする? 週末何する? など、暮らしの中では、みんなで話して納得解を決めなければならないことが溢れています。
でも、まぁ上手くいかなくて(笑)。些細なことで打ち合わせが炎上しているなんて、日常茶飯事です。
大人の学び舎、って言っているのに、大人気ないぶつかりの連続ですね(笑)。それくらい共同生活って大変なんです。
ひとりの方が楽。生きていて、そう思ったことがない人は少ないと思う。仕事でも家庭でも、誰かと過ごすということは、自分とは異なる人と共にいるということ。そりゃあストレスだ。
多様性って、めんどくさいんですよ。自分と違う人って、わけわかんないし、宇宙人みたいに感じるし。「私だったらこうするのに」の連続。
いきなり「多様性って大事だよね! みんなハグ!」とは絶対にならない。
でも、その煩わしさの裏に、他者からもらっているものもあるんです。「自分ひとりではこうなっていない未来」に気付けば、異なりは悪いことだけではないって分かるはず。
「早く行きたいならひとりで行け。遠くに行きたいならみんなで行け」
そんな言葉があるように、誰かと共にいることは、衝突を起こし、歩みを遅くさせる。でも、ひとりでは見えなかった景色に辿り着ける。
いろんな年代の人とフラットに出会い直して、それぞれの人生を尊敬しあう、ってとても大切な経験。互いに学び合うことで、一人ひとりが前に進めるんだと思います。
分かり合えない他者とぶつかることで、「私ってこういう性格なんだ」って現実がまざまざと現れる。そして、それでもこの人と共に過ごしたい、と再チャレンジする。そして、また違う自分と出会う。そんな繰り返しなんですよね。
共同生活はSNSと違って、気に食わない人をタイムラインから消す、なんてことはできませんから。逃げられないので、向き合わざるを得ない。でも、だからこそチャレンジできる。
しんどいですけどね。でも、きっと、その衝突が大切なんだと思います。
分かり合えなさは、良くないもの。そう思ってきたけれど、衝突するからこそ、見つかるものもある。余白の再定義と同じよう、分かり合えなさに意味付けすることが大切なんだと思う。
他者とぶつかり、「私」が現れる。
誰かとの衝突を避けたいのなら、自分の意見を出さない方がいい。そうして、自らを見失っていくのだろう。
多くの人は、普段、社会に必要とされていることをしていると思うんです。主語が私ではなく、社会になっている。
でも、他者と生きて、ぶつかるなかで、少しずつ「私」が立ち上がってくるんですよ。「あの人はこう言っているけど、私はこうしたいよな」とか「いやいや、私がやりたいのはこれだ」とか。
そうやって、ひとつずつ「私」を取り戻していく感覚があります。
「私」を取り戻す、か。たしかに、日常を生きていると、社会に沿って動いてしまう。行為の主体が、「私」なのか「社会」なのかが分からなくなってしまう。
余白のなかで他者と生きることは、人間であることを学ぶことなんです。
共同生活をして、他者との異なりがいかに大変かを知り、自分はどうしたいのかを問う。その繰り返しって、とても人間らしいと思うんですよね。
社会が主語になっていたら、私が私である意味がない。
他者と生きるなかで私が感じたものは、ちゃんと存在するもの。大切にすべきものなんです。
でも、気を抜くと「それは正しいのか?」って、社会に寄せてしまう。そうすると、「こう感じるべきなんじゃないか」って、自分の感性を否定するようになる。
そうじゃなくて、まずは自分の感じていることに素直になってみる。「ちょっと体調が悪いな」でもいいし「私が本当にやりたいのはこれかも」でもいいし。
立ち止まって、ひとつひとつの感性をほどき、ほぐしていく。そうすれば、「私の感性も捨てたもんじゃないな」って思える。その先で、私が私として生きていけるんだと思います。
人生を考えるって、どういうことなんだろう。そんな問いから始まった、今回の取材。
人生の学校は、いろいろな視点を教えてくれた。
なにもないからこそ、余白には自分だけの色を塗ることができる。
他者がいるからこそ、そこに映る自分を見つめることができる。
私の感性を大切にするからこそ、自分として生きることができる。
これらの視点は、気を抜くと忘れてしまうものだと思う。日常にかまけて、社会に身を寄せてしまうと思う。
けれど、蒔かれた種はいつか芽吹く。だから、真っ直ぐにひねくれながら生きればいい。そして、悩んだら立ち止まればいい。
きっとそのときは、人生の学校が僕たちを待ってくれていると思うから。
(※記事内の写真は、おふたりから提供いただいたCompathプログラム内の写真です)
ソラミドについて
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