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旗を掲げられずとも、迷っていようとも。『ソラミド』編集長から、3年目のご挨拶。

こんにちは、『ソラミド』編集長の安久都です。

「自然体な生き方を考えるメディア」としてはじまった『ソラミド』は、2023年11月に2歳の誕生日を迎えました。

思考の海に深く深くもぐり探し当てた、淡く光るものを見せてくれた人たち。
はるか遠くに思えたけれど、たしかに僕たちと地続きの場所で生きている人たち。
自然体をめぐって漂う僕たちと、ともに泳いでくれた読者さんたち。

みなさんのお話を聴いた、みなさんに言葉を届けた、みなさんと考えを交わした2年間。本当にありがとうございました。

さて、2歳。人間だと、好奇心がもくもく育ち、あれにもこれにも目を輝かせる頃でしょうか。言うなれば、自分を味わいはじめる時期。走り、転び、痛みを知り、遊び、眺め、世界を感じる。

撮影:飯塚麻美

そんな日々は、喜びと驚きであふれると同時に、戸惑いやたどたどしさにも満ちている。

2歳になった『ソラミド』も、大きな迷いを抱えています。一度立ち止まり、「こうしていこう!」と、旗を高く掲げようともしたけれど、できなかった。

いまも、道は見つかっていません。それでも、喜びと驚きを感じるために。たどたどしく歩いてみようと思っています。

ここに書くのは、足を止めて、もう一度歩こうと決めるまでの、編集長である僕の迷いです。いままでの取材記事で出会った言葉を綴り、お世話になったみなさん、新しくお世話になりたいみなさんへ、お手紙を送らせてください。

手をとるのなら、一緒に歩いていきたい。

2年間の活動で、さまざまな嬉しいお言葉をいただきました。「自然体な生き方を考えるメディア」として、少しずつ育ってきたことも感じます。

一方で、違和感もひっそりと大きくなっていました。このままでいいんだっけ、と。違和感の尻尾すら上手くつかめないまま、時間が過ぎていく。

ようやく向き合えたきっかけは、記事を読んだ方から「救われた」と言っていただいたことでした。

僕たちがお届けした記事が、誰かを救った。暗闇のなかの命綱になれたのなら、その事実は、ひたすらに光栄なことです。

ただ、同時に「救いを届けるだけの無責任さ」もあるのではないかと感じてしまいました。それは、精神科医 泉谷閑示先生のお話を思い出したからです。

生きづらさに、おめでとう。人生の続編は、大通りから外れて始まった | 精神科医 泉谷閑示より(撮影:飯塚麻美)

まぁ、「人生がよくなるらしいから、簡単に自分らしい道に行けるなら行こうかな」という程度の考えでは行けるものではない。決して甘くありません。前の人にくっついて行けばいい大通りから外れて、道なき道をかき分けて自分の判断だけで進まなければならないんだから。保証を求めているような段階の人には「こっちにおいで」と僕は言いません。

暗闇から這い出たとしても、その後に歩んでいく道中は決して甘くない。けれど、その茨の道を進むことでしか生きられない人がいる。傷つきながら、それでも歩いていく。

すり傷だらけの誰かを想像したとき、この“それでも歩いていく”という壮絶さに、僕たちが向き合えてきたとは、到底言えない。

『ソラミド』をはじめた2年前、僕はこう綴りました。

ああでもないこうでもないと考えた先に、あなただけの自然体が待っている。その考えるきっかけを提供したいんです。

(中略)

さまざまな生き方、考え方に触れて、疑問をぶつけ、悩み抜く。『ソラミド』が、その繰り返しを重ねる場になれば嬉しいです。

拝啓、自然体で生きたいと願うあなたへより)

自然体は、きっと苦しみ、悩み、考え抜いた先にある。いや、考え続ける道のりそのものを自然体と呼ぶのではないか。その信念は変わっていない。なのに、その道のりに向き合えていないのではないか。

考え抜くために、救いは必要です。でも、それだけでは不十分。信念はまんなかにあり続けるからこそ、なにかを変えないといけないのではないか。

僕たちは、考えていなかったのかも。

自然体な生き方を考える。考え抜く。じゃあ、「考える」ってなんなのでしょう。2年前に向き合うべき問いを、喉元に突きつけられた感覚。

「考える」を考えていて浮かんだのは、東大寺僧侶 森本公穣さんのお話でした。

他人の人生ではなく、自分の人生を生きるために。東大寺僧侶・森本公穣さんに聞いた、自らの頭で考えることの大切さより(撮影:久保秀臣)

こうやって僕が話していることを、なるほどなと思ってくれているかもしれんけど、それを素直に受け容れるのは実は仏教的じゃないんやで。

(中略)

お釈迦さんが説いたことも、それをただ勉強して頭に入れるだけでは、本当に自分のものにはならん。それでは、お釈迦さんっていう他人の軸で生きていることになるからね。

教えを自分のものにするには、まずその教えを疑わんとあかん。こうおっしゃっているけど、それは本当に正しいのかって。疑って、自分の手や頭で考えて、やはり間違いないと自分で思うことによって、教えは初めて生き方の指針になるんや。

(中略)

心を正しく持つには、自分の頭で考えんと。本を読んだり、人に教えを請うことも大事やけど、それだけやと単なる知識で止まってしまう。自分の頭で考えて、心のなかに一本の筋を作らんと、ずっと他人に影響されたまんまや。いつまでたっても自分の人生は生きられへん。

森本さんの言葉が、過去から僕たちを刺してくる。

この記事のテーマは「他人から自由になり、自分の人生を生きる」でした。お話を聞いた当時の、身軽になった感覚を覚えています。止まらずに考えていこう、と強く思ったことも。

けれど、「他人から自由になり、自分の人生を生きる」について、そこで思考を止めてしまった。「自分の頭で考えることが大事」という教えを疑って、自分の手や頭で考えることはしなかった。

他のテーマに関しても同じです。言葉を選ばずに書くと、答えはないと言いながら、一度きりの取材でわかった気になっていた。僕たちがやってきたことは、「考える」ではなかったのかもしれません。

わかった気にならず、疑い、問い続ける。いつになっても、すっきりしない。でも、このモヤモヤこそが、自分の人生を生きることに繋がるはず。

だとすると、考え続ける道のりそのものである自然体は、自分にとって大切なことにモヤモヤし続ける様子のこと、と言えるのではないか。立ち止まったら逃げていくものでもあり、歩み続ける行為のなかに存在するもののはずです。

あなたがいるから、私は移ろえる。

モヤモヤし続ける。字面はかわいいですが、とてもしんどいこと。「実体などがはっきりしないさま、心にわだかまりがあるさま」であるモヤモヤは、どっちつかずでもあり、宙ぶらりんでもあり、不安定。正しさという答えに寄り掛からないって、本当にしんどい。

答えを手にしないということは、常に自分を変化の可能性に置く、ということです。昨日見つけた信念が、今日はごみ屑にしか見えないかもしれない。過度な言い回しではあるけれど、絶望が希望になり、希望が絶望にもなる。その起伏に自己を置き続けることに耐えられず、固定化させてしまう。

じゃあ、モヤモヤを握り、考え続けるには、どうしたらいいんだろう。

そのヒントを探していると、北海道東川町にある人生の学校Compathの遠又香さん・安井早紀さんのお話にたどり着きました。

私の感性も捨てたもんじゃない。人生の学校Compathから教わった、人間であることの学びより(提供写真)

遠又さん:Compathのプログラムでも、暮らしのなかの学びを大事にしているんです。実は、カリキュラムから学ぶことよりも、それ以外の時間から感じることの方が多くて。

他の誰かと共に過ごす時間で、いろんなことを発見する。そして、そこから新しい道を見つける。他者との触れ合いのなかに、次の一歩につながる触媒がいっぱい転がっている感じですね。

(中略)

安井さん:多くの人は、普段、社会に必要とされていることをしていると思うんです。主語が私ではなく、社会になっている。

でも、他者と生きて、ぶつかるなかで、少しずつ「私」が立ち上がってくるんですよ。「あの人はこう言っているけど、私はこうしたいよな」とか「いやいや、私がやりたいのはこれだ」とか。

そうやって、ひとつずつ「私」を取り戻していく感覚があります。

他の誰かと真摯にぶつかるためには、固定した自分を揺らがす必要があります。だって、自分と誰かが全く同じだなんてあり得ませんから。他者との時間を重ねると、異なりは絶対に浮かび上がる。この異なりを無視しないのが、他者と真摯にぶつかることだと思います。そして、そのぶつかりは、自分をそのままではいさせてくれない。

安井さんがお話してくれたよう、その変化は「私が立ち上がってくること」に繋がります。でも、それは「いままでの私を壊すこと」でもある。

考え続けるって、この“立ち上がり”と“破壊”を繰り返すことなんじゃないか。「これを信じたいのかも」を掘り出し、「あれ、なんか違うなぁ」が降ってくる。霧が晴れるぞ、と思ったら、視界が濁っていく。モヤモヤ、モヤモヤ。

大変です。でも。

遠又:人生を見つめ直すって、きっとあったかいものなんですよ。淡々と向き合って悩むんじゃなくて、誰かと分かち合う体温のあるもの。

安井:誰かと話すことで「あなたって優しいよね」とか「コーヒー淹れるのうまいよね」とか、自分で見えていなかった面に気付くことができる。そうやって少しずつ自分を再発見して、歩みは進んでいくと思うんです。

宙ぶらりんであり続け、私が立ち上がっては、壊される。それはきっと、僕たちだけではできなくて。お手紙を読んでくれているあなただけでもできなくて。

誰かの体温があるからこその、あたたかな営みなんだ。

同じく、私の感性も捨てたもんじゃない。人生の学校Compathから教わった、人間であることの学びより(提供写真)

自らを生かすことばが、誰かを生かすから。

ここまで考えてみて、天邪鬼な僕は急に思ってしまいました。誰かと交わるのが大切なら、ひとりで考える時間は要らないのでは、と。具体的に言うと、『ソラミド』がWebメディアとしての形態をとる意味はないのでは、ということです。

たしかに、いままでの流れを体現するのなら、わざわざ記事に仕立て上げずとも、すぐに誰かへ共有すれば事足りてしまいます。取材という行為は、れっきとした他者との交わりですが、執筆は違う気がする。

執筆は、孤独な作業。その孤独から生まれたものを、なぜ届け続けようとしているのだろう。

すぐに答えを差し出せないくせに、執筆を辞めてはならない、と強く思う。半ば直感的に。

その直感にことばを与える足がかりになったのは、詩のソムリエ 渡邉めぐみさんが伝えてくれた信念でした。

感性に、うなずき合って生きていく。言の葉で詩を彩りながら | 詩のソムリエ・渡邊めぐみより(提供写真)

めぐさん:いまの詩は、「口語自由詩」と言って、現代のことばで自由に書かれるものなんです。でも実は、それが広まったのは、戦争を賛美する詩が多く読まれたからなんですよね。

それって、ことばが人を死なせたとも言える。

谷川俊太郎さんや、私が研究していた寺山修司は、その時代を知っているからこそ、覚悟を持って「詩は誰かを生かすもの」と言っていると思うんです。

人を死なせることばではなく、人を生かすことばをどうつくっていくのか。そんな問いに、彼らは向き合っていたんですよね。

(中略)

偉大な詩人たちからバトンを受け継いだ、と言うと恐れ多いですけど。これからも、詩のソムリエとして、人を生かすことばと向き合っていこうと思っています。

このお話を読み直したとき、「人を生かすことばは、まず自分を生かすことばだったのでは」という思いつきが頭に浮かびました。

これは勝手な想像でしかないですが、人を生かすことばを贈るとき、谷川俊太郎さんですら、煩悶のなかにいたのではないか。その不安定さと向き合って、深く沈んで、ようやく指先が触れたことば。それはきっと、紡いだ本人にも息を継がせてくれることば。それほどの質量があるから、このことばが誰かへ飛び込んでいく。

めぐさんは谷川さんにならって「人を生かす」という言い回しをしていましたが、それはCompathのおふたりが言うところの「私が立ち上がってくる」と通じているように感じます。

ことばを紡いで自分を生かし、その自分が他者と交わり、破壊され、他者が紡いだことばで息をし、また自分を生かすことばを紡いでいく。モヤモヤを抱え、考え続けるという営みには、他者とことばが折り重なっているのではないか。

旗を掲げずに、迷う。

「自然体な生き方を考えるメディア」としてのキーワードが、いくつか見えてきた気がします。じゃあ、『ソラミド』はどうしていけばいいんだろう。

道を探りはじめたのが、今年の3月。そこから8ヶ月経っても、答えは見つかりませんでした。自問自答だけが重なっていく。立ち止まり続け、時間がただ過ぎていく。募る焦りとは裏腹に、足はどこにも動かない。

そんな途方に暮れる日々のなか、ふと「この迷いを抱えながらも歩くことこそが、考え続けるってことなのでは…?」と思った瞬間がありました。

旗を掲げて突き進めばいいのに、分かれ道であたふたしてしまう。世界に置いていかれたような気分で、心細い。とても、とっても居心地が悪い。

でも、この感覚を大切にしながら、歩きだしてみるのが、『ソラミド』として掲げる「自然体な生き方を考える」なのではないか。

いま思うと、自分と向き合う時間をつくるブランド「じぶんジカン」のマツオカミキさんは、こうお話していました。

迷い悩むからこそ、心地好く生きられる。自らと向き合う「じぶんジカン」マツオカミキが積み重ねてきた選択より(撮影:大舘由美子)

会社を辞めてから、ずっと試行錯誤しているんです。きっとこれからも悩み続けるんでしょうね。無理と出会うたびに、なにが嫌だったのかを考えて、違う道を選択する。

迷って、道を選択して、迷って、道を選択して。そのつど自分と向き合って、生きていくんだと思います。

長崎県東彼杵町に移住された中川晃補さんの言葉も、脳裏に浮かびます。

「らしさ」とはゆらゆらと揺らぐもの。中川晃輔という生き方が、答えをほぐしていくより(提供写真)

「これが自分らしさだから、こういう生活をしよう」って考えるのは、なんだか順序が間違っている気がするんです。上手く言えないけど、「らしさ」を言語化できている必要はないはずで。

頭で考えて言葉を与えるよりも、身体が分かっていることがあると思う。だからこそ、直感で選ぶことが大切になる。

その都度その都度、自分が心地好いと感じるものを選んでいけば、その道が「その人らしさ」になる。僕は、そう思っています。

いままでの記事を読み返して、強く感じました。僕たちが惹かれてお話を伺いにいった人たちは、もしかしたらみんな迷い続けているのかもしれない、と。

そうか。旗を高く掲げなくても、迷いながらも歩いてみればいいのか。

言葉にすると、単純な結論。それでも、そこにたどり着くまで、とても長い時間をかけてしまいました。

答えに寄り掛からずに、考え続ける。2年間で突き付けられた、その難しさ。長く立ち止まりましたが、この難しさを痛感できて本当に良かった。

ようやく、考え続けられる気がします。

撮影:飯塚麻美

長いお手紙を読んでいただき、ありがとうございました。

「迷っています」とお伝えするために、ここまで言葉を重ねるのはどうなのだろう、明確ななにかをお伝えした方がいいのでは…と思う自分も確かにいるのですが、ここから生まれるものがあると信じて。

3年目の『ソラミド』は、迷いながらも歩いてみます。従来の取材記事はもちろん、さまざまな企みもお届けさせてください。

見守ってくださるみなさんにとっては、危なっかしいことこの上ない足取りだと思います。でも、みなさんと一緒に首を傾げながら歩いていけたのなら、想像もしなかったなにかに出会えるはずだから。

自然体な生き方を考えるメディア『ソラミド』を、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

ソラミド編集長 安久都智史


ソラミドについて

ソラミド

ソラミドは、自然体な生き方を考えるメディア。「自然体で、生きよう。」をコンセプトに、さまざまな人の暮らし・考え方を発信しています。Twitterでも最新情報をお届け。みなさんと一緒に、自然体を考えられたら嬉しいです。https://twitter.com/soramido_media

執筆

安久都智史
ソラミド編集長

考えたり、悩んだり、語り合ったり。ソラミド編集長をしています。妻がだいすきです。
Twitter: https://twitter.com/as_milanista